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アウシュヴィッツ

クラクフを見たあと行ったのは、クラフクから西に70kmほどのところにあるオシフィエンチムという街です。この街は、ドイツ語名のアウシュヴィッツのほうが有名でしょう。
第二次世界大戦中にドイツ軍によって行われた、150万人ともいわれる大量虐殺ホロコーストの舞台となった、アウシュヴィッツ絶滅収容所のあった街です。


こちらはアウシュヴィッツ収容所の入口にかかる「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になれる)」と書かれた門です。
この文字はアウシュヴィッツだけでなく、すべての収容所に書かれていたそうです。
しかし、実際は働いても自由になれることはありませんでした。
この第一収容所には、多い時で2万人が収容されていたそうです。


こちらは収容所の建物です。
元々はポーランド軍の兵舎だったところをドイツ軍が増改築して、収容所にしたそうです。
基礎部分と一階、二階がそれぞれ別の時期に造られたことがわかります。


同じ形をした建物が倉庫街のように整然と並んでいます。
現在は、これらの建物内がアウシュヴィッツ収容所に関する膨大な資料、証拠、被害者の遺品などの展示場となっています。


こちらは、ルドルフ・ヘスの絞首刑台です。
アウシュヴィッツ収容所の所長だったヘスは、終戦後に逃亡・潜伏していたところを捕らえられ、この場所で絞首刑になりました。
ちなみに、私もよくわかっていなかったのですが、ヒトラーの側近で副総統となったルドルフ・ヘス(Heß)とアウシュヴィッツ所長のヘス(Höß)は別人です。
それから、左のほうに写っている案内板は、上からポーランド語、英語、ヘブライ語といなっています。
ドイツ人の訪問者がとても多かったのですが、ドイツ語の案内はありませんでした。


こちらは、アウシュヴィッツ第二収容所(ビルケナウ収容所)です。
アウシュヴィッツ収容所は、第一〜第三収容所まであり、この第二収容所が最大で、多い時で9万人が収容されていたそうです。
犠牲者の多くは、この収容所のガス室で殺されました。
写真は「死の門」と呼ばれるビルケナウ収容所の入口監視塔で、私が立っている場所まで鉄道引き込み線があり、一両当たりに70〜100人もの人を乗せた貨物列車が20両〜30両編成で、多くの人たちをこの収容所に強制連行してきました。
そして、この場所に降ろされ、働けるものと働けないものに選別され、働けないと判断された人(75%)は、このすぐ近くにあるガス室まで歩かされ、殺されました。残りの人は、死ぬまで強制労働をさせられました。
「アンネの日記」で有名なアンネ・フランクもここに収容されていました。アンネは、終戦間際に別の収容所に移送され、最期はそちらで命を落としました。


こちらがガス室の跡です。
敗色濃厚となったドイツ兵が撤退前に爆破したそうです。


こちらがガス室の説明です。


こちらは、ビルケナウ収容所の建物です。
外観からは想像がつかない恐ろしい場所だったんですね。

第二次世界大戦では日本はドイツと共に敗戦国となりました。
ドイツには、アウシュヴィッツ収容所(ポーランド)やブーヘンヴァルト収容所が博物館として保存されています。そして、毎日たくさんのドイツ人が訪れています。
日本ではどうかと考えてみたのですが、そういう場所は思い浮かびませんでした。
戦争に関する場所で、日本人がたくさん訪れているところでは、沖縄、長崎、広島が浮かびますが、私の印象では、日本が加害者だという場所ではなく、日本人がたくさん命を落とした場所、慰霊の場所だという印象を持っています。
日本が加害者であった場所(例えば、南京)には、日本人はあまり足を向けていないなあと思いました。
日本人のスタイルが外国人の目にどのように映っているのか考えさせられました。国際社会で日本人が生きていく上で、大事なことだと思いました。

ガイドをしてくださった中谷さん、ありがとうございました。
いろいろ知らなかったことを知ることができ、また考える機会となりました。
イマジン * ヨーロッパの風景 * 04:10 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

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