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南イギリス紀行 セヴァーン橋とクリフトン吊り橋

今日は、吊り橋の話を書きます。吊り橋の歴史において重要な2つの橋をご紹介します。


ウインザー城のあとは、ブリストルを目指して西に移動しましたが、ブリストルの少し手前で寄り道をしました。理由は、セヴァーン橋を見たかったからです。


ちょっと遠いので、もう少し近づいてみます。
桁断面が飛行機の翼のような形をしていて、ハンガーロープが斜めになっているのがわかるでしょうか。
セヴァーン橋は、1966年に完成した中央径間988mの吊り橋です。中央径間1,280mのゴールデンゲートブリッジが1937年の完成ですから、スパンとしては特筆すべき吊り橋ではありません。しかし、吊り橋の歴史を書いた本には必ず登場する歴史的な吊り橋です。
建設当時、吊り橋の技術はアメリカが進んでいました。1940年に風速わずか19mの風で共振現象を起こし崩落したタコマナローズ橋(中央径間853m)の事故の後、風の作用に抵抗できるようにするため、吊り橋の桁断面はトラス形式(補剛トラス)が主流になっていました。タコマの桁断面は、限界まで軽量化した薄っぺらい断面だったので、風への抵抗ができないものでした。補剛トラス吊り橋は、風を通しやすく、桁断面の剛性が高い形式であるため、タコマの事故を教訓とした新しい吊り橋の形式となりました。
そんな時代に初めて流線形の翼のような桁断面をした吊り橋が登場しました。それがセヴァーン橋です。
流線形の鋼製箱断面は、風を乱すことなくスムーズに流れさせることができ、しかも桁断面の剛性も十分に確保できます。これにより、補剛トラス吊り橋よりも桁を軽量化して経済性を高め、さらに塗装面積が少ないため維持管理コストも低減できる合理的な形式でした。
セヴァーン橋は、この流線形鋼箱断面の技術だけでなく、軽い桁を安定させるためにハンガーロープを斜めにするという技術も採用しました。この流線形鋼箱断面と斜めハンガーを用いた形式は英国式吊り橋と呼ばれ、1981年に中央径間1,410mのハンバー橋が完成したことで、当時世界最長だったアメリカの吊り橋をイギリスが追い越しました。
しかし、セヴァーン橋の斜めハンガーは数年後に振動による疲労の問題が発生し、振動対策工事が行われました。同じ形式のハンバー橋やボスポラス橋(イスタンブール、1,074m、1973年)では、斜めハンガーの問題は発生していないため、形式そのものの問題ではないようですが、斜めハンガーはその後あまり採用されていません。
近年の長大吊り橋は、セヴァーンのような流線形の断面か、補剛トラスのどちらかになっていますので、セヴァーン橋は大きな流れの1つを創った橋と言えるでしょう。


こちらは、セヴァーン橋の下流側に架かる第二セヴァーン橋です。
ケーブルが見えにくいですが、こちらは斜張橋ですね。中央径間は456mで、1996年に完成したものだそうです。


こちらは、ブリストルのエイヴォン峡谷に架かるクリフトン吊り橋です。ブルネルが設計、建設した橋です。
ブルネル親子の話は、読んでみるとどこかで聞いた事がある話でしたが、ここに来た時はまだ知りませんでした。
ブルネルは1806年に生まれた技術者で、父親は、シールド工法を発明してテムズ川の下をくぐるトンネルを完成させた技術者でした。ブルネルは20歳でこのトンネル工事を手伝ったそうです。
ブルネルは時計職人として機械の技術を学び、のちに、鉄道、蒸気船、吊り橋などを設計した天才技術者でした。ブルネルの話を読むと感動せずにはいられません。すべてはご紹介できませんが、このクリフトン吊り橋に関するエピソードだけご紹介します。

ブリストルのエイヴォン峡谷の対岸には、当時富裕階級が住んでいて、この峡谷に架橋が望まれていました。そこでコンペが行われることになり、24歳のブルネルもこれに参加します。
このコンペの委員長を務めていたのは、イギリス土木学会の初代会長でメナイ吊り橋(1826年)などを完成させていたテルフォードでした。彼はこのコンペに提出された22の設計案すべてを不適当としました。ブルネルの吊り橋案については、芸術性は優れるものの、テルフォードが考える最大スパンを越えていたため、不適当だと判断しました。委員会がテルフォード自身の案の提出を求めると、ブルネルの案と酷似した案を提出し、しかも建設費は非常に高かったため、コンペをやり直すことになりました。
2度目のコンペでは、ブルネルとテルフォードを含む5つの案が最終選考に残りましたが、テルフォード案を退けて、ブルネルの案が選定されました。
クリフトン吊り橋の工事は、1831年に着工されましたが、その後、資金不足に陥りました。ブルネルは自ら設計した別の吊り橋、ハンガーフォード橋(ロンドン)の架け替えに際して、この鋼材を安く購入し、クリフトン吊り橋に転用しました。
工事の中断もあって、クリフトン吊り橋は、1859年にブルネルが他界した5年後の1864年に完成となりました。
ちなみに、テルフォードが設計したメナイ吊り橋(1826年)は、完成間近に風によって損傷し、木材によって補強されましたが、その後も何度も風による損傷を受けて、現在は補強されケーブルも取り換えられて残っているそうです。クリフトン吊り橋は、現在も健在です。
権威に立ち向かった若き技術者ブルネルに感動しました。
それでは、クリフトン吊り橋の雄姿をご紹介します。


10枚の鋼帯板を束ねてボルトで締めたアイバーチェーンを3重にして使っています。
アイバーチェーンを使った吊り橋は、後にブダペストの鎖橋(1849年)にも繋がっていきます。


こちらは、エイヴォン峡谷を見下ろしたところです。
遠くに見えるのがブリストルの街です。
左のほうに見える建物が、この日、私たちの泊まったホテルです。


桁はラチストラスになっていますね。


それまで小雨でしたが、橋を渡っているときに本降りになり、対岸に渡り切った時は、この通りでした。
そして、急に暗くなったせいか、照明も点きました。
防護柵の形状が独特でした。
歩行者に恐怖心を与えないための配慮ではないかと思います。


対岸の上流側から見たところです。


対岸のステーケーブルのところです。
ここ(私が立っている場所)にクリフトン吊り橋の資料館がありました。


対岸の下流側から見たところです。


こちらは、元のほうに戻ってきたところです。
雨がさらに激しくなってきました。


ここには、ブルネルのプレートがありました。
出資者の名前ではなく、設計者の名前のプレートが標示されているんですね。
日本にそういう橋があるでしょうか。


一通り見たので、いったんホテルに引き上げることにしました。


夜、暗くなってから、ライトアップされたクリフトン吊り橋を見に行きました。
鎖橋の時もそうでしたが、デジカメで暗いところの写真を撮るのはやはり難しいですね。


翌朝、ホテルのレストランからクリフトン吊り橋を眺めました。

そして、ホテルを出て、ブリストルにあるブルネルが設計した史上初の鋼鉄蒸気船グレートブリテン号を見に行きました。
イマジン * ヨーロッパの橋 * 09:05 * comments(3) * trackbacks(0) * - -

フランス紀行 ミヨー高架橋

フランス紀行の9回目は、世界一高い橋として有名なミヨー高架橋をご紹介します。


鍾乳洞を出て高速道路を北へ1時間ほど行くと、遠くにミヨー高架橋の姿が見えてきました。
運転しながら撮ったので、少しぶれていますが、撮らずにいられませんでした。




実物の橋を渡っているのに、コンピュータグラフィックを見ているみたいですね。


橋を渡ったところにサービスエリアがあり、ミヨー高架橋の資料や土産物がありました。また、ミヨー高架橋のデモVTRを見れる部屋もありました。架設時の様子や大統領のテープカットによる開通式の様子が流れていました。
ミヨー高架橋の橋梁形式比較検討の模型も展示されていました。
こちらは、トレッスル式橋脚のように、鉄骨で橋脚を造る案の模型ですね。


こちらは、日本でも増えてきているV字(ミヨーの場合はY字)橋脚の案ですね。


こちらは、高橋脚となる最大径間部を含む3径間分だけ立体V字橋脚とでも言うんでしょうか。橋軸方向にV字、橋軸直角方向に逆V字にした橋脚を用いる案ですね。この高さでこの細さは、たぶん全て鋼製橋脚だということなんでしょうね。


こちらは、アーチ橋案ですね。私もこの地形を見ればアーチ橋を提案すると思います。


こちらは、採用になった斜張橋案です。やはり一番目を引きますね。


サービスエリアからはミヨー橋のと間に丘があって橋が見えないのですが、駐車場の端まで行くと何とか見えました。












車で谷の下におりてみました。
どこからみても絵になる橋ですね。
イマジン * ヨーロッパの橋 * 04:46 * comments(2) * trackbacks(0) * - -

フランス紀行Α.櫂鵝Ε妊紂Εール

フランス紀行の6回目は、古代ローマの水道橋、ポン・デュ・ガールをご紹介します。
ポン・デュ・ガールは、古代ローマの都市ニームに、直線距離25kmの山中にある水源ユゼスから水を引くために築かれた全長50kmの導水路のうち、ガール川を渡る箇所に築かれた延長275m、高さ49mの水道橋です。この水道橋のところでの導水路の断面は、幅1.20m、高さ1.85mもあるそうです。
建設されたのは、皇帝アウグストゥスの時代の紀元前19年で、6世紀までは使われていたそうです。

ガイド等に書かれている通りですが、注目すべきは水路の勾配で、水源とニームの高低差は17mで水路の総延長が50kmですから、0.034%というわずかな勾配です。
これは容易でない勾配です。私は市役所に勤めていたときに、高低差のつけにくい現場で道路とそれに付随する側溝を設計したことがありました。当初、私が最低限度の排水勾配として0.3%で設計していたところ、上司から「せめて0.5%はつけないと施工できないよ。それでも水溜りができないように施工するのは難しいんじゃないか」と言われ、0.5%の排水勾配を限界値として設計したことがありました。
この話を2,000年前のローマ人にしたら、「腕が悪いなあ。俺らならその1/10の勾配でも施工できるぜ」と言われるってことですよね。
そして、その施工精度を50kmもの区間、持続しなければ水は流れないんですから、現在の技術水準と変わらない技術を持っていたと言っていいんじゃないでしょうか。
前置きはこれくらいにして、写真でご紹介していきます。


アヴィニョンからポン・デュ・ガールには、30分ほどで着きました。
駐車場の案内図は、メッシュでできていました。


案内図に従うまでもなく、上流に向かって歩いていくと、すぐに巨大な水道橋が見えてきました。


さらに近付くと、川辺で遊んでいる人たちが見えてきました。
昔よく長瀞に行ったことを思い出しました。


川の流れは穏やかで、ガイド等には水遊びもできると書いてありましたが、遊泳禁止のようなマークの看板も出ていました。


近くで見るとこんな感じです。
私がいる所は、1743年に3層のうち最下層に合わせて造られた橋です。
ここで、あることに気がつきました。
この石材、見事に整形されています。厚さはほとんど狂いなく、みな同じ厚さで切断され、幅はいくつかのパターンがありそうですが、これもかなり精密に加工されています。写真左上のところを見た感じでは、石と石の接触面は粗面にして摩擦抵抗を確保し、角というか辺のところは粗面の所よりもわずかに削り込んで、誤差を吸収して施工しやすくしてあるように見えます。これはコンクリートブロックを使ってやっているのと同じプレハブ工法ってことですよね。
高い技術っていうのは、水路勾配だけじゃないんですね。基礎からしっかり精密に造られていたからこそ、0.03%という勾配を確保する精度も出せたってことなんですね。
ローマ人の技術力には感服いたしました。


対岸(水路の上流側)に渡って坂を上ってみました。
ここから見ると、18世紀に併設された橋の様子もよくわかりますね。


一番上まで上ってみると、水路になっている最上層のところに行く階段の入口には鍵がかけられて、上には行けないようになっていました。
最上層に行けなかったのは残念ですが、このポン・デュ・ガールにはとても感動しました。
イマジン * ヨーロッパの橋 * 07:27 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

北フランス紀行ノルマンディー橋とタンカルヴィル橋

北フランス紀行の3回目は、2つの橋を紹介します。


こちらは、セーヌ川に架かるノルマンディー橋です。
中央径間は856mもあり、1995年の完成時点で、斜張橋としては、それまでの最長603m(楊浦大橋)を大幅に上回り、その後、1999年にしまなみ海道の多々羅大橋(890m)に抜かれるまでの間、世界最長でした。現在は、ヨーロッパ最長、世界では4番目の長さの斜張橋です。
多々羅大橋とは姉妹橋で、最大支間がだいたい同じと言うだけでなく、塔の高さ、形もよく似ています。ただ、大きく違うのは、美しさです。ノルマンディー橋は両岸が低く、航路を確保するために、極端な縦断線形を入れているので、正直言って美しいとは感じませんでした。
多々羅大橋は、しまなみ海道が開通して間もないころに見に行きましたが、とても美しかったです。ノルマンディー橋を見たのは今回が初めてでしたが、構造的な類似性だけで姉妹橋にするのは考えものだと感じました。


ノルマンディー橋を見たあと、パリ方面へ向かいました。20kmほど行くと、大きな吊り橋が見えてきました。タンカルヴィル橋という橋です。


この橋の手前には、この橋に関する資料がいろいろ展示されていました。
写真の資料を見ると、中央径間は608mあって、1959年には2本のメインケーブルだったものを、2000年に4本のケーブルに交換したことが紹介されていました。吊り橋のメインケーブルを交換するとは、ずいぶん大がかりな補強が行われたんですね。世界的にも非常に珍しい事例だっただろうと思います。

帰宅後、家の資料で調べてみました。
タンカルヴィル橋の完成は1959年で、当時、吊り橋ではアメリカが世界をリードしていて、1931年のジョージワシントン橋(1067m)や1937年のゴールデンゲート橋(1280m)など、1,000mを越える吊り橋も架けられていました。
ヨーロッパは2つの大戦でこの時期の橋梁は少なく、吊り橋ではこのタンカルヴィル橋(1959年、608m)とイギリスのフォース鉄道橋(1964年、1006m)が代表的なものだそうです。
タンカルヴィル橋は名前も知らない橋でしたが、偶然に通りがかり知ることができて良かったです。
イマジン * ヨーロッパの橋 * 23:50 * comments(4) * trackbacks(0) * - -

中欧紀行ブダペストその4

中欧紀行の10回目もブダペストです。
今回は、ブダペストの夜景をご紹介します。
ドナウの真珠、ドナウのバラなどとその美しさを讃えられるブダペストですが、一番美しいのは夜景かもしれません。


こちらは、遠くから見た鎖橋です。


こちらは、かなり近づいて見たところです。
遠くから見ても、近くから見ても素晴らしいですね。
ここまで来た甲斐がありました。


こんな真っ暗な時間になっても鎖橋の周辺は観光客で溢れ返っていました。


こちらは、鎖橋から見上げた王宮です。
王宮の姿も昼と夜とでは全く違いますね。


こちらは、漁夫の砦です。
少し見えにくいですが、砦の上にもたくさんの人の姿が見えます。


こちらは、漁夫の砦から見た鎖橋です。


こちらは、自由橋です。
こちらも美しいですが、橋面から下側が見えにくいですね。鎖橋のように欄干や下弦材のラインもライトアップして出したらもっと綺麗に見えるように思います。

イマジン * ヨーロッパの橋 * 00:18 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

中欧紀行Д屮瀬撻好箸修裡

中欧紀行の7回目は、ハンガリーの首都ブダペストです。
ブダペストを流れるドナウ川には、たくさんの多様な形式の橋が架かっていたので、私が見た橋をご紹介します。
ここを訪れてから初めて知ったのですが、ブダペストのドナウ川に架かる橋は、すべて第二次世界大戦中にドイツ軍が撤退の際に爆破もしくは破壊していったそうのなので、現在の橋はすべて戦後に再建されたものだそうです。


ブダペストの南側、ドナウ川の下流側の橋からご紹介します。
こちらは、ラージュマーニョシュ(Lágymányosi híd)という橋です。
橋梁形式は普通の桁橋ですが、照明が非常に目立っていますね。高さは35mもあるそうです。
1995年に完成した橋だそうです。


南側から2番目にあるは、ペトゥーフィ(Petőfi híd)という橋です。
こちらは、上路式のトラス橋ですね。元の橋は1937年完成で、1945年に爆破され、1950-52年に再建されたようです。
橋の名前は、26歳で亡くなった詩人であり革命家のペトゥーフィ・シャーンドル(1823-49)という方の名前となっています。
次の詩が有名だそうです。
「起てマジャールの民よ 祖国が呼んでいる 今こそ起つとき 今起たねば起つときはない
 隷僕の民に甘んずるか自由の民になるか いずれをとるか 君ら応えよ」
(在ハンガリー日本国大使館HPより転載)


3番目は、自由橋(Szabadság híd)といいます。
こちらは、下路式のトラス橋です。美しい橋ですね。ハンガリーの建国1,000年を記念して建設された橋で、元の橋は1896年完成で、1945年に爆破(中央径間のみ?)され、1946年に再建されたようです。
着工式では皇帝フランツ・ヨーゼフがリベットを打つハンマーのボタンを押したそうです。橋名も当初はフランツ・ヨーゼフ橋といったそうです。しかし、戦後の復旧の際に、この橋の名は人気がなかったため改名されたようです。フランツ・ヨーゼフは、オーストリアでは名君として人気が高いですが、ハンガリーでは人気がなかったんですね。


4番目は、エルジェーベト橋(Erzsébet híd)です。
こちらは、吊り橋ですね。1903年に完成し、1945年に爆破され、1960-64年に再建されたそうです。当時世界最長の吊り橋だったそうです。そして、今はとてもシンプルな構造ですが、旧橋は自由橋のようなとても美しい装飾の施された橋だったそうです。
この橋の名前エルジェーベト(ハンガリー語)とは、皇帝フランツ・ヨーゼフの最愛の妻、皇妃エリーザベトのことです。エリーザベトは、ハンガリーの独立を支援したので、ハンガリーでは神のように祀られています。
フランツ・ヨーゼフは、自分の名の橋の隣に、妻の名の橋を架けたんですね。しかし、悲しいかな、ヨーゼフとエリーザベトの関係をよくあらわしているように思いました。


最後に紹介するのは、セーチェーニ鎖橋(Széchenyi Lánchíd)です。単に鎖橋とも呼ばれています。
こちらは、アイバー・チェーンを使った吊り橋です。ブダペストの橋の中では最も古い橋で、1839年から1849年にかけて建設されました。施主は皇帝ではなく、セーチェーニ・イシュトバーン伯爵で、設計はイギリス人技師T.W.クラーク、建設はスコットランド人A.クラークの監督のもとで行われたそうです。1945年に破壊されましたが、建設100周年の1949年に再建されたそうです。


こちらは、鎖橋の獅子像です。
1852年に製作されたそうです。橋の四隅にそれぞれあります。格好いいですね。
大阪の中之島の難波橋にも獅子像がありますが、姿勢が少し違いますね。


こちらは、鎖橋のタワーというか門ですね。真ん中には、ハンガリーの国章が見えます。
アイバー・チェーンは二重になっていて、千鳥配置で吊材が下りているのもよくわかりますね。
少し残念なのは、落書きです。人が歩けるところはすべて落書きだらけでした。


こちらは、門のところに設けられたバルコニー状の張り出し部から見たところです。
欄干の装飾もいいですよね。

イマジン * ヨーロッパの橋 * 07:57 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

アーネムのジョン・フロスト橋

先月のことですが、オランダのライン川下流の街アーネム(Arnhem)に行ってきました。
この街は、映画「遠すぎた橋」で有名になりました。
第二次世界大戦中、連合軍がノルマンディーに上陸してから3カ月後の1944年9月に行った大規模な作戦「マーケット・ガーデン作戦」の中で、特に凄惨な戦闘のあった場所です。
大まかには、こんな戦闘です。

マーケット作戦は、空挺隊(パラシュート部隊)を敵中深くに降下させ、先にライン川などに架かる橋を確保するという作戦で、ガーデン作戦は、戦車隊などの地上軍を進撃させ、確保されている橋を爆破される前に渡ることで、3、4日間で一気にドイツ深くに攻め込もうという作戦でした。
ライン川は、ドイツ国内では北向きに流れ、オランダに入ると西に向きを変えて、2つの大きな流れに分かれています。その北側の川の街アーネムと、南側の川の街ナイメーヘン(Nijmegen)が主な戦場となりました。
空挺隊は、これらの街の周辺に降下し、南から連合軍の戦車隊がやってくるという計画でしたが、実際には、ほとんどが作戦通りには行きませんでした。
アーネムの橋の北で孤立無援のなか二軒の民家に立てこもって奮闘していたジョン・フロスト中佐の英空挺隊は、5日目にはついに弾薬が切れて降伏しました。そして、8日目にはドイツ軍の援軍の戦車隊が到着し、マーケット・ガーデン作戦は中止され、攻勢から防御に作戦変更されました。この作戦を立てたモントゴメリー元帥は「90%成功した」と言ったそうですが、この戦闘での連合軍側の戦死、負傷、行方不明者は1.7万人以上だそうです。
結局、アーネムの橋は連合軍の爆撃によって破壊され、翌年(1945年)の3月にレマゲン鉄橋を確保するまで連合軍はライン川を渡ることができなかったというのは、何とも皮肉ですね。
そして、終戦後にこの橋は元の姿で復旧され、ジョン・フロスト橋と改名されたそうです。


こちらがジョン・フロスト橋です。


橋の北側の一角に、この橋の史料や遺品が置かれていました。
こちらは、パラシュート隊の降下作戦の写真ですね。
彼らのほとんどが戦死もしくは投降してドイツ軍の捕虜となったんですね。


こちらは、連合軍の爆撃によって破壊された時の写真ですね。


私たちがこの場所でいろいろな史料を見ていた時に、老夫婦がやってきて、テーブルを出し、イギリス国旗を敷いて、その上に遺品らしきものを並べていました。写真に写っている老紳士は、私にも深々と頭を下げておられました。
きっと、戦死者の遺族なんでしょう。いやもしかしたら、ここで戦った方なのかもしれません。
イマジン * ヨーロッパの橋 * 09:00 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

スイス紀行カペル橋(ルツェルン)

スイス紀行の3回目は、ルツェルン(Luzern)のカペル橋(kapellbrücke)です。
この橋は、14世紀に架けられた屋根付きの木造橋で、ヨーロッパで最も古い木造橋といわれています。
17世紀になって、欄間のようなところに三角の板絵が110枚描かれました。橋の両側はいつも花で飾られていてとても美しく、観光客の目を楽しませてくれます。

私がカペル橋を知ったのは、7年ほど前だったでしょうか。
3人で担当していた橋梁設計業務で、客先から屋根付きの歩道橋を検討してほしいと依頼されたときに、一緒に担当していた他の二人が口をそろえて「カペル橋」を挙げました。
一人は火災が起きる前に行ったことがあり、もう一人は火災のあと復元されたときに新婚旅行で行ったことがありました。なのに、私だけが行ったことがなかったので、私もぜひ一度行ってみたいと思いました。
それがようやく実現しました。
Yさん、Oさん、このブログを読んでくれていますか。
私もとうとうカペル橋を渡りましたよ。


私がルツェルンに到着したときは、曇り空で少し残念だったんですが、夕方、薄暗くなってきて照明が灯り始めると、昼間とは違った美しさのカペル橋を見ることができました。
中央の塔は、「水の塔(Wasserturm)」と呼ばれていますが、昔は軍事目的(拷問部屋など)として使われていたそうです。


旧市街のほうから見たカペル橋です。見る角度によって雰囲気が変わるのも、このカペル橋の魅力のひとつでしょう。


こちらは、旧市街側の橋の入口です。
入口という表現は、橋ではあまり使いませんが、カペル橋は橋の形をした美術館のようでもあるので、入口という感じでした。


板絵には、ルツェルンの守護聖人の生涯が描かれているそうですが、残念ながら、1993年に火災にあって、ほとんどが焼失してしまいました。
あ、そうそう、この写真でかろうじてわかるのですが、板絵の焼失のほかに、もうひとつ残念なことがありました。
欄干のところに斜材が入っているところがあるのがわかるでしょうか。こういう感じで、実はアーチになっているところが、焼失前のカペル橋にはあったそうです。
橋は完全に復元されたと聞いていたのですが、今回行ってみたら、アーチの部分は見つかりませんでした。どうやら焼失したところにアーチ橋の径間も含まれていて、復元するときに、アーチから他と同様の形式に変えられてしまったようです。


わかるでしょうか。痛々しいですよね。
一番手前の絵はほぼ健全ですが、その先の2枚はすすで真っ黒になっています。そして、その先は橋が新しい木材で再建されていて、板絵はありません。たぶん、80枚くらいが焼失または一部焼けてしまったと思います。大変残念ですね。


翌日は見事に晴れ渡って、美しいカペル橋を見ることができました。

今回初めてカペル橋を渡って、火災の跡にはちょっとショックを受けましたが、やはり美しい橋だと思いました。いい思い出になりました。
イマジン * ヨーロッパの橋 * 05:27 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

北イタリア紀行┠法橋

北イタリア紀行の8回目もヴェネツィア(Venezia)です。
今回は、カナルグランデの4番目の橋をご紹介します。


こちらは、サンタルチア駅とローマ広場(バスターミナル)を結ぶ橋です。
カナルグランデに架かる第四の橋です。
この橋のことを調べるのには、少し苦労をしました。
私が持っていった地図には、この橋はなく、ホテルでもらった地図には、運河を渡る白い線はあるものの、橋の名前は書かれていませんでした。
それで調べるのに苦労したのですが、ようやくこの橋の正体がだいたいわかりました。
名前は、憲法橋(Ponte della Costituzione)というようです。昨年の9月11日に供用開始されたばかりの新しい橋のようです。
支間は94mもあるようです。


こちらは、橋の下から見たところです。
面白いディテールですね。
鋼管を使った立体トラス構造ですが、橋軸方向に通る5本の主部材を連結する方法がとても変わっています。中心の1本から放射状に連結する部材が出ているんですね。
外の4本は相互には連結されていないので、ねじりを受けると弱そうな構造に見えますよね。
それでもなおこの構造を採用したのは、外の部材同士を連結すると、煩雑になるからなんでしょう。外の部材をつなぐ横部材がうっとうしく見えるかどうかは人によって感じ方も違うと思いますが、そうした部材を一切なくして、ハッとするような見せ方をしているんですね。
それで、中央の鋼管から放射状に出す部材を太くして局部的なねじりにある程度抵抗できる剛性を持たせているのだろうと思いました。


こちらは、サンタルチア駅の近くにあったものです。
これを見たとき、憲法橋の桁断面だと思いました。でも写真で比べると、よく似ていますが少し違うようだとわかりました。説明が読めなかったので、よくわからないのですが、検討段階で大型模型実験か何かに使われたものかなあなんて考えたりもしました。
ネットで少し調べて見たら、憲法橋完成のニュース記事に架設状況の写真を見つけましたので、ご紹介します。

















イマジン * ヨーロッパの橋 * 06:26 * comments(1) * trackbacks(0) * - -

北イタリア紀行Дナルグランデの3橋

北イタリア紀行の7回目もヴェネツィア(Venezia)です。
今回は、カナルグランデに架かる3つの橋をご紹介します。


まずこちらは、サンタルチア駅に着いてすぐに目に入ってくるスカルツィ橋(Scalzi)です。
この橋はもともと鉄の橋であったものから、1933年に石橋に架け替えられたそうです。アーチ支間は40mあるそうです。
鉄から石という架け替えは、とても珍しいですね。
旧橋は、腐食の問題で架け替えられたのでしょうか。
石造りアーチは、海の潮(防食対策)と船舶の航路(桁下空間の確保)のことを考えると、自然な選択に見えます。
しかし、実はもうひとつ重要な問題があると私は感じています。それは、北イタリア紀行イ任款匆陲靴拭⊃賛紊量簑蠅箸盍愀犬靴討い訥晴爾量簑蠅任后
ヴェネツィアでは地盤沈下が問題になり、地下水の使用を止めました。しかし、それだけでは沈下の問題は解決しません。もともと干潟に作った街なので、軟弱な地盤の上に大量の杭を打って島を維持しています。「ヴェネツィアを逆さまにすると森ができる」といわれるのは、それだけ大量の木杭が打ち込まれているということを喩えたものです。下が弱いので、重いものを乗せれば沈んでいくのです。
この沈下の問題も考えると、私はこのカナルグランデに架ける橋は、石橋よりももっと軽量な鋼橋のほうがいいんじゃないかって考えました。




カナルグランデを南に進んでいくと、スカルツィ橋の次に出てくるのがリアルト橋(Rialto)です。
1592年にヴェネツィア本島のほぼ中央に架けられたヴェネツィアのシンボル的な橋です。アーチ支間は29mだそうです。
この前もご紹介しましたとおり、木製の跳ね橋が火災で焼失したため、石橋に架け替えられたものですが、その前には、見物人の重みで崩壊したこともあったそうです。




こちらはカナルグランデの最も南側に架かる3番目の橋、アカデミア橋(Accademia)です。
ウィキペディアには1933年に木製の橋として建設されたと書かれていましたが、下から見たら鋼橋でした。
1933年に木製の仮橋として架けられた後、1948年に鋼製アーチで補強され、1986年に構造部材は鋼製で、外観は旧橋のように木製部材で化粧した橋として、再建されたそうです。
アーチ支間は48mあるそうです。
カナルグランデの3つの橋は、それぞれに特徴があって面白いですね。
イマジン * ヨーロッパの橋 * 01:02 * comments(0) * trackbacks(0) * - -
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